18/03/2011/FRI/七十七日目

未明、長野で震度3。早朝、福島で震度3。朝、福島で震度3、茨城で震度3、岩手で震度3。昼、福島で震度3、茨城で震度3。夕方、茨城で震度4、宮城で震度3。夜、岩手で震度3。
朝、胸に電子聴診器を張り付けたままの状態で起床。眠っている間も私はずっと心音の配信を続けていた。

朝起きた時点での視聴者は8人。配信の告知をしてすぐの時間帯がやはり最も視聴者数が多く、夜が更けるにつれて減っていったが、それでも一晩中視聴者が途絶えることはなかった。私の命の音を聞いている人たちがどこにいるのか、正確な場所は分からない。その人たちのことを私は「どこかの誰か」と認識するしかないのだ。しかし「がんばろう日本」とか、「日本は一つ」といったスローガンがしきりに叫ばれるこの熱っぽい渦の中で、敢えて孤独と距離を意識しながら、自分の命の音を「どこかの誰か」に手渡し続けることが、私にとってはとても重要なことのように思われたのだった。

今日の第5グループの計画停電は、午後6時20分~午後10時。この地域での夜間の計画停電ははじめてである。私はこの心音の配信を、停電によって機材の電源が断ち切られるまで続けるつもりだった。

そして計画停電開始予定時刻の午後6時20分、処刑が執行されるようにして電気が断ち切られた。部屋の電灯や、機材の電源が一斉に落ちる。それと同時に、18時間にわたって「どこかの誰か」と私とを結んでいた糸も容赦なく断ち切られた。

それはまるでふいに訪れた死のようだった。

私は何かを確かめるようにして自分の胸に手を当てた。すると肋骨の下から微かに、だが力強く、心臓が脈を伝えてきた。

停電した家の中は真っ暗だった。手探りで食堂へ降り、母、「パ」ートナー、弟の史門、私の四人で夕食をとる。燭台にロウソクを立て、揺らめく炎の明かりで私たちは静かにカレーライスを食べた。いつもより味覚が鋭敏になっているような気がしたのは、きっと闇のせいだろう。

食事を終えたものの、皿を洗おうにもこの闇の中では何もできない。電気が回復するのを待つしかなさそうだ。そこで私と「パ」ートナーは二人で散歩に出かけることにした。

外へ出ると月明かりが眩しかった。きらめく星たちで夜空は水しぶきを浴びたようだった。しかし街はまるで息を引き取ったかのように静かだった。生暖かいような肌寒いような、はっきりとしない放射能混じりの風が吹く。ふと東南の方角を見ると、月明かりに照らされて、不思議な形の雲が鯨のように図々しく横たわっていた。

「あ、地震雲…、また地震がくるのかなぁ」と、「パ」ートナーが不安そうに言ったその時である。

私たちの網膜に不意打ちを食らわせるようにして、突然街の灯が覚醒した。家という家に明かりが一斉に灯され、私たちはまるで爆撃にでもあったかのように、なす術もなくただそこに立ち尽くした。予定時刻より早く停電が終わったのだ。

シュールレアリスティックな夜を彷徨っていた私たちが、いつもの感覚を取り戻すのには、ものの10秒とかからなかった。明かりの灯された生活の暖かさが戻ってきたことに私と「パ」ートナーは素直に歓喜し、母と弟が待つ実家に帰っていったのだった。

震災発生からちょうど一週間。
今日は完封。

ここまでの成績…
積算上演日数:524日(±0)
終演まで:447日(-1)
終演見込み日:2012年6月7日(±0)

Posted: 3月 18th, 2011
Categories: パ日誌
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