News for 1月 2013

10/01/2013/THU/七百四十一日目

羽田から夜の飛行機でシンガポールへ向けて飛びました。出発の日はいつもバタバタするものですが、今は消灯した機内で淡々と作品音声の編集を続けています。

本日付の日誌では今回発表する作品の制作過程を振り返ってみようと思います。さまざまな要素が絡み合う、多層的な立体感を持つ作品なので、密林を切り開きながら進むようにしてコツコツと書き進めてみます。

Platform for sharing her stories (2013 Sound Installation)

Platform for sharing her stories (2013 Sound Installation)

今回、僕が発表する作品のタイトルは『Platform for sharing her stories』。割と大掛かりなサウンド・インスタレーションです。そもそもこの『「パ」日誌メント』は、アートにおけるお金の意味とは何か?という問いが動機となってはじめられたものですが、今回も、作品の背後で動くお金の意味への問いかけが、そもそもの動機となりました。
今回の参加する展覧会、『Omnilogue: Your voice is mine』展は国際交流基金の主催事業です(厳密にはNUSミュージアムとの共同主催ですが、実質的には基金の主催と言ってよいと思います)。つまり展覧会の運営資金だけでなく、作品をつくる制作費までもが、外務省所管の独立行政法人である国際交流基金から、”国際交流”のために使われることを前提に支給されています。”国際交流”の対象はあらかじめ「シンガポール」に設定され、「現地に1~2週間滞在し、リサーチせよ」と、オーダーされることによって、制作のプロセスの段階から実践的に”国際交流”に寄与するよう求められています。もちろん、このリサーチにかかる渡航費、滞在費、日当も国際交流基金によって負担されています。
作家の立場からすると、こうして支給されるカネは作品の根本に大きな影響を与えます。なぜならそのカネが国家のカネであり、既に”日本とシンガポールとの国際交流”という明確なコンセプトを持っているからです。カネが社会を巡る血液であるならば、このカネを使って制作するということは、好むと好まざるとにかかわらず、このカネの持つ意味が、僕の作品に輸血されるということに他なりません。

ではここで求められている”国際交流”とは何なのか?それは一体何を目的としているのか?柄にもなく、ちょっと法律を調べてみました。

・独立行政法人国際交流基金法第3条
「国際文化交流事業を総合的かつ効率的に行なうことにより、我が国に対する諸外国の理解を深め、国際相互理解を増進し、及び文化その他の分野において世界に貢献し、もって良好な国際環境の整備並びに我が国の調和ある対外関係の維持及び発展に寄与することを目的とする」

上記によれば、”国際交流”とは国家間で互いに理解を深め、調和することを目的として行われるモノのようです。では「国家と国家が相互に理解を深める」と言う時、実際に理解しあう主体とは一体誰を指すのでしょうか?上記の国際交流基金法第3条では、国家が主体として語られていますが、よくよく考えてみると生き物でもない「国家」が、理解しあう主体として語られているのも変な話ですよね。理解しあい、調和する主体は、やはり人間でなくてはなりません。ではその場合の主体として適当な人間とは一体誰なのか?これは国家を「代表する」人間ということになるでしょう。そして今回のこの事業において日本を「代表する」=「representする」のは、他ならぬ僕自身ということになります。

とうことで僕は国を「re-presentする」、つまり国家を国家の代わりに身をもって「再・現前化する」立場になってしまったわけです。そこで僕は考えました。日本国を代表することになった僕自身がシンガポール共和国へ出向き、日本国の代わりにそこにいるシンガポール国籍を持つ誰かの「前」に「現」れ、面と向かって話をし、最終的に打ち解け合うことこそが、”国際交流”の本質なのではないかと。お酒なんかを用意すれば、尚のこと距離が縮まり、相互理解が深まって良いでしょう。なにせ国家の代表が会談するのですから、”国際交流”のために支給された国費を、その渡航、滞在、交際のために消費することほど正当な使い道はありません。
なんだそういうことか、シンガポールの人たちと楽しく「飲むニケーション」して帰ってくる、それが”国際交流”。もうそれでいいじゃん、とさえ思ったのですが、しかしさすがにそれだけでは作品になりませんから、僕は会話で交わされる相手の声を、作品の素材として録音させてもらうことにして、さらに話の話題を「亡き祖母の記憶」に設定しました。またその祖母が「戦争経験者」であることを条件に加え、人づてに紹介してもらったり、インターネットを通じて募ったりして、最終的に12日間で10人の人と会談を行いました。

まず祖母その人が健在でなく、他界していることを条件としたのは、今回の”国際交流”において宿命的に引かれた「シンガポール/日本」という境界線に、交差する形で「死者/生者」というもう一つの境界線を引こうと思ったからでした。これによって両者の関係は線的なカウンター構造から面的なマトリクス構造になります。

1930年代に撮影された祖母と祖父の写真

1940年ごろに撮影された祖母と祖父の写真

「死」とはいつも人間にとって最大の関心ごとであり、想像力を強く喚起するものです。僕の祖母は1999年に他界したのですが、話す相手と互いに「あの世」にいる祖母の写真を見せあい、生前の思い出や、最後に会ったときのこと、葬儀のときの記憶などを交換するうちに、自然に感情移入が起こり(涙を流す人も何人かいました)、相手の祖母が自分の祖母のように想えてきて、いつの間にか「シンガポール/日本」という境界線は見えなくなっていました。かけがえのない存在だった祖母への情愛や、祖母を喪失した時の切実な感情を前にして、「シンガポール人」あるいは「日本人」という枠組は、それぞれが持っている多くの属性の中の一つとして後退し、その結果、僕たちはただ等身大の個人として向き合っていたのです。このような現象は国籍を異にする友人同士の間では当たり前に起きますが、個人を主体とした関係性においては、互いに打ち解け合い、交流が深まれば深まるほど、往々にして国家や国籍という概念は後退し、形骸化していくものです。

一方で「祖母」とは孫にとって極めて個人的な存在でありながら、大文字の歴史の証人でもあります。つまり戦争の時代を生き抜いた当事者でもあるわけです。

国際交流基金法第3条では、国家が主体として語られていましたが、国家を主体とした”交流”というと、まず真っ先に連想されるのは戦争ではないでしょうか。「国際交流=戦争」というと、少々突飛な感じがしますが、耳に心地よい”国際交流”という言葉が、戦争と地続きにあるのは否定できない事実です。
クラウゼヴィッツは『戦争論』で、「戦争は他の手段を交えた政治的交渉である」と述べました。戦争は外交の代わりの「他の手段」、つまりは武力が行使されている状態であり、それは政治的交渉の一つの手段にすぎないというわけです。かの真珠湾攻撃で、外務省が宣戦布告(交渉打ち切り)の報をアメリカ側に伝えるのを遅らせてしまったことは有名ですが、相手国に宣戦布告の報を伝えることが外交であるならば、やはり戦争は外交という政治的交渉の延長にあるということになります。国際交流基金が外務省の外郭団体であることを考えると、国際交流基金法第3条にある「我が国の調和ある対外関係の維持」という抽象的な文言が、つまり具体的には「武力が行使される手前の政治的状態を維持する」という、戦争を前提としたコンセプトであることが解ってきます。
また日本人が真っ先に男女の幸福な絆を連想する「Engage」という単語が、軍事用語では「交戦する」という意味であることを思い出してみても良いでしょう。相手国に乗り込み、相手と直接武力で接触することで交渉する…いわば「交戦」とは暴力による”国際交流”なのです。”国際交流”を大文字の「国家」を主体として語る限り、それが戦争と地続きにあることは決して否定できません。

したがって”国際交流”の名の下に、シンガポールと日本両国の関係性をふまえて新作をつくるよう求める今回の事業が、政治的な意味を持つことは無視できない事実であり、そこで僕が戦争の問題を扱うことは極めて自然なことでした。ましてや太平洋戦争時、日本軍によって大規模な虐殺が行われたというシンガポールです。逆に戦争の問題を扱わないことの方がおかしいですよね。会話の話題を「戦争経験のある」祖母の記憶と設定したのは、このような理由からでした

前述の通り、祖母とは孫にとってかけがえのない個人的な存在でありながら、大文字の歴史の証人でもあります。この両義性はシンガポール人である相手と日本人である僕との交流における「個人を主体とした関係性」と、「国家を主体とした関係性」をくっきりとしたコントラストで描き出します。

会話を前者にフォーカスすれば、相手と僕の関係にはエモーショナルな共鳴が生まれますが、後者にフォーカスすれば、二人の関係はぎこちないものとなり、亀裂が生じはじめます。とりわけ日本人である僕が虐殺の対象となった中国系シンガポール人に、祖母が生きた戦争時代の記憶について訪ねるとき、問題は極めてデリケートなものとなります。今回話をした人の中には直接祖母を日本人に殺されたという人はいなかったのですが、かつての史実が意識の明るみに出されることによって、否応なく二人の関係は「被害者/加害者」という構図へと陥りはじめるのです。コミュニケーションにおけるこのような両義性は”国際交流”が抱える二重性そのものであり、「祖母」という話題は、その二重性の上で生じるコミュニケーションの揺らぎをあぶり出すための、格好の材料だったといえるでしょう。

タイトルの『Platform for sharing her stories』の「her stories」とは言うまでもなく、「祖母の物語」のことを指します。実は展覧会のブローシャーのゲラがあがってきたとき、『Platform for Sharing Her Stories』という風に各単語の語頭が大文字に変えられてしまったことがありました。英語のタイトルの語頭は、接続詞、前置詞、冠詞等を除いて大文字表記にするのが普通ですが、僕は慌てて『Platform for sharing her stories』という風に、最初の「P」以外、すべて小文字表記に戻してもらいました。

国家を主体とした「大きな物語」の中では、個人のすべては国家に従属すべきものとして扱われ、個人の尊厳は侵され、犠牲を強いられます。そして歴史を通じて戦争とは性差が特に際立つ分野でもあります。その意味で祖母たちは犠牲を払わされた当事者です。ですから大文字の主体で語られる「History=His Story=彼の物語」に対して、等身大の個人を主体として語られる「her stories=彼女の物語」を、僕はどうしても大文字で表記したくなかったのでした。その気持ちは、現在の日本の空気…震災と原「パ」ツ事故で国力が弱まり、それをダシに国粋主義者が周辺諸国との国境問題を深刻化させる中、「美しい国」などと独善的な感性を押し付けようとするA級戦犯の孫が首相の座に返り咲き(実はその人物は今回の企画の発端に関わっていたりもするのですが)、国家が個人の権利を制限しにかかっているにも関わらず、人々が進んで「大きな物語」中に巻き込まれていこうとするような、全体主義的な空気…への抵抗感に由来することは記しておきたいと思います。

card

電話番号が記されたフライヤー

こうした一連のプロセスで録音された10人のシンガポール人たちが語る「her stories」は、「she」という三人称を接着点として結合され、10の「she」が1つの主体となるような形でモンタージュされます。シンガポールは多民族国家であり、今回話をした人たちの民族的背景も中国系、マレー系、インド系、ポルトガル系と様々だったのですが、それぞれが話の中で、それぞれの祖母を指し示すときに口にする「she」という10の三人称を、全員が1人の人物を指しているかのように編集していきます。
こうしてモンタージュされた「her stories」は、1999年に僕と病床の祖母とが交わした最後の会話の録音と、対話するように交互に流されます。すると10人によって語られた「she」という三人称は、編集を経て希釈されることで普遍性を帯びはじめ、語る当人の亡き祖母を指し示しながらも、僕の祖母を指し示し、また同時に10人のうちの別の誰かの祖母をも指し示し、さらにそのいずれでもない誰かの祖母のことをも指し示しはじめるのです。
さらに展示室には、電話番号が記された名刺大のフライヤーが置かれており、そこに電話をかけて留守番電話に声を録音することで、誰でも自分の祖母の記憶をサウンド・インスタレーションの中に組み込めるようになっています。つまり「祖母の物語を共有するためのプラットホーム」は、10人のシンガポール人と僕の間だけに留まらず、作品公開後も不特定多数の人々へと開かれているのです。
もちろん積極的に祖母の記憶を提供してくれる人が現れてくれれば嬉しいですが、僕にとってはその機能的な効果以上に、共有のプラットホームを「未だ発せられてない声、思い出されていない記憶」へと開き続けることが重要なのです。沈黙している誰かの声がいつか発せられた時のために、そして忘れられた誰かの記憶がいつか思い出された時のために、作品の扉は開け放しておきたいのです。
録音された誰かの声を自分の作品の素材として編集することは、権力を行使することに他なりません。その本質には宿命的に暴力が内在しています。もちろん今回、録音も編集も話者の了解と協力のもとに行っていますが、それでもそこで行われる編集行為が暴力性を帯びることは避けられません。だからこそ作品が、展示された後も誰かの関与によって変容し得るポテンシャルを用意しておくこと、そして一人一人の「she」が一つに束ねられることで創り出される大きな「she」が、あらゆる人の祖母を指し示しながら、その先にいる誰でもない人の祖母という、「空位の主体」を指し示すことが重要になると思いました。

そうなると、語ることができる「記憶」よりも、むしろ語ることができない「忘却」にこそ、光をあてなければならないでしょう。実際のところ、今回祖母の記憶、それも戦争経験を持った祖母の記憶を語れる人を探すのにはなかなか苦労しました。リサーチをはじめて驚いたのですが、複雑な言語環境による齟齬や、血族の多さに対して非常な核家族化が進んでいることなどから、シンガポールでは祖母と孫とが密なコミュニケーションをとる機会が少なく、祖母のことをよく憶えていないという人が多いのです。
また戦争の記憶もほとんど忘れ去られています。街には虐殺の犠牲者のための慰霊碑が建てられたりしているものの、人々の中で戦争はもはや現実味をもって意識されていないようでした。あれほどの大虐殺があったにも関わらず、戦争の記憶は、どこぞに日本兵の幽霊が出るだのといった怪談として、ファンタジー化しているきらいすらあります。これは、おそらく戦争を経験した当事者の多くが、後の世代に心の傷を受け継がせたくないがために口を閉ざしてしまったことや、戦後シンガポール政府が日本との協調を望んだため、日本の戦争責任を追求しなかったことなどが原因ではないかと考えられます。現在、シンガポールと日本の関係が日中、日韓のそれと比べて比較的良好だといえるのは、このようにシンガポール人たちが戦争の記憶を敢えて遺さなかったことが、大きく作用していることは確かでしょう。また、日本の占領から解放された後も、イギリスの植民地支配からの解放、マレーシアからの分離独立と、非常に複雑な経緯を経て現在に至るということも、人々の記憶のあり方に少なからず影響を与えているのでしょう。

いずれにしてもシンガポールという国が、過去を水に流したことで獲得した目覚ましい発展と引き換えに、重度の記憶喪失になっていることは確かです。今回話をしたうちの一人がこんなことを言いました「僕は建設工事の音が耐えられない。なぜならそれは記憶が壊される音だから」と。古びたものは即取り壊され、どこも潔癖的なまでに新しく、何もかもが人工的で、街ではひっきりなしに建設工事の音が鳴り響く…そのスクラップ&ビルドのスピードは東京を遥かに凌ぎます。国土が狭いこともあり、開発のためなら墓でさえ掘り起こすというのですから驚きです。シンガポールという場所は、喪失の記憶ですら失われ、忘れられたことすら忘れられていくような場所なのです。

そんなシンガポールの衛星写真をGoogleマップで見ていた時、あることに気がつきました。ほぼ開発し尽くされた都市国家シンガポールの中心に、まるでドーナツの空洞のように、ぽっかりと森だけの空間が残されているのです。その辺一帯は「セントラル・キャッチメント・エリア」と呼ばれ、水源と自然をまもる保護区に指定されたエリアとのことでした。それ見て、僕はロラン・バルトの日本文化論、『表徴の帝国』のことを思い出しました。そこでバルトは大都会東京の中心に、皇居という森だけの空虚な空間が存在していることに着目し、こんなことを述べているのです。

中央の緑色の部分がセントラル・キャッチメント・エリア

 わたしの語ろうとしている都市(東京)は、次のような貴重な逆説、《いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である》という逆説を示してくれる。禁域であって、しかも同時にどうでもいい場所、緑に蔽われ、お濠によって防禦されていて、文字通り誰からも見られることのない皇帝の住む御所、そのまわりをこの都市の全体がめぐっている。(中略)しかしその中心そのものは、なんらかの力を放射するためにそこにあるのではなく、都市のいっさいの動きに空虚な中心点を与えて、動きの循環に永久の迂回を強制するために、そこにあるのである。このようにして、空虚な主体にそって、[非現実的で]想像的な世界が迂回してはまた方向を変えながら、循環しつつ広がっているのである。
ロラン・バルト『表徴の帝国』

都市の中心に森だけの空間が存在しているというだけならば、単なる地図上の類似としてさほど注目に値しないでしょう。しかし僕の中で、バルトのいう大都会東京の中心と、都市国家シンガポールの中心が重なりあったのは、東京の森にある「誰からも見られることのない皇帝の住む御所」が、シンガポールの「セントラル・キャッチメント・エリア」に隠された「昭南神社」の廃墟とぴたりと一致したからでした。

建立当時の昭南神社

建立当時の昭南神社

「昭南神社」とは、1943年2月、日本がシンガポールの密林に皇民化政策の一環として建立した神社です。日本から宮大工を呼び寄せ、檜材を搬入し、捕虜を労働に駆り出しながら、当時の国家神道思想において全神社の頂点に定めらた伊勢神宮を模して造られたといわれています。そして1945年8月、日本が全面降伏した直後に、神社は日本軍によって爆破処分され、以来、石造りの土台、石段、手水盤だけが遺されたまま、廃墟として放置されています。保護区に指定された「セントラル・キャッチメント・エリア」の中にはトレッキングコースがあるのですが、廃墟はちょうど皇居が「お濠によって防禦され」ているように、立ち入り可能な道から貯水池によって隔てられ、「緑に蔽われ」「文字通り誰からも見られることのない」禁域の中に隠されています。
容赦ない開発の手から何一つ逃れられないかに見えるシンガポールにおいて、68年もの間、ある建造物が廃墟のまま遺されているというのは奇跡的なことです。建立された日ではなく、政治を司る中心的機能を失い、そこが「どうでもいい場所」になった日を誕生日とするならば、昭南神社の廃墟と皇居とは、まさに双子の兄弟といえるでしょう。

僕は昭南神社の廃墟のある、このシンガポールの「空虚な中心」を、展示空間に「そのまま」転送したいと思いました。この場所を映像や音声で記録して展示するのではなく、あくまでこの場所を「そのまま」です。なぜなら空虚なこの場所こそが、シンガポール人と日本人の交流の場として、そして互いに祖母の記憶を語り合う場として、相応しい場所だと思ったからです。
「空虚な中心」から「充実した外縁」へと出れば、街には活気が溢れ、高層ビルと高級ブランド・ブティックが建ち並び、金融市場では莫大な額のカネが行き交い、至るところでスクラップ&ビルドが繰り広げられています。資本主義は常に成長し、増殖し続けることを社会に強制しますが、シンガポールほど目に見えてその強制力によって突き動かされている国もないでしょう。しかし僕は僕たちの祖母の話を、そのような都市のいっさいの狂騒から切り離された、「どうでもいい場所」でしたかったのです。たとえその何かが分からなくても、僕らが何かを喪い、何かを忘れたのだと、せめてそのことだけでも思い出させてくれる空っぽな場所で。

密林の木の上に設置されたソーラーパネルと配信機器

密林の木の上に設置されたソーラーパネルと配信機器

僕は昭南神社の廃墟のある場所に、ビデオカメラとマイクと配信機器を設置し、その場所のサウンド・スケープを、インターネットを介してリアルタイムに展示空間へと転送し、作品の背景として構成したいと思いました。もちろん密林の中には電気などありませんから、ソーラーパネルとバッテリーも併設し、すべての機器の電源を太陽光発電で賄います。
展示空間は5メートル四方のブラックキューブで、壁面に6つのスピーカー、さらに床下には8つの震動スピーカーが設置されており(物理構造はThe Voice-Overによく似ています)、神社跡地からリアルタイムに送られてくるサウンドスケープは、このうち2つのスピーカーと床下の震動スピーカーから流されます。そして前方壁面には黒地に白い文字で「BACKGROUND SOUNDSCAPE IS STREAMED LIVE FROM THE CENTER OF SINGAPORE」との言葉が投影され、その下に僕と祖母の最後の会話が字幕で表示されます。密林に設置されたビデオカメラはあくまで確認用のもので、展示では廃墟そのものの映像は映し出されません。観客は宇宙空間のような暗闇の中で、耳で聴く音と足の裏から伝わる震動で、シンガポールの「空虚な中心」をリアルタイムに感じるのです。

廃墟として遺されている手水盤と石造りの土台=Platform

廃墟として遺されている手水盤と石造りの土台=Platform

EQによって低域を強調された「ゴーッ」という、現場のライブな地鳴りによって、展示空間の床面は神社跡地に遺された石造りの土台=「Platform」と化し、「もはやないもの」であるはずの過去が、文字通りライブに観客の身体を揺さぶります。ちょうど声を発する人が、自らの声が自らの肉体に震動するのを感じることで、声と自我の自己同一性を信じるように、この震動する「Platform」の上では、「もはやないもの」である過去と、自分の生きる実時間である現在とが同一化して感じられるのです。 観客は、祖母の記憶を、過去の戦争の記憶を宿したこのライブな土台の上で受け取ることになります。
一方スピーカーから流れてくる中高域の音には、鳥や虫や動物たち声や、上空を飛ぶ航空機の音などさまざまな音が含まれます。その中でも特に注目したいのは、密林にざわめく風の音です。風の音は「風化」という言葉の文字通り、「もはやないもの」となった過去を、回生させることなく「もはやないもの」のまま現前させるでしょう。喪失を象徴するという意味では、シンガポールの外縁で聴かれる建設工事の音と、中心で聴かれる風の音とは対の関係にあります。しかし都市の建設工事の音が、喪失後の再建によって、その騒音の中に喪失と忘却それ自体の記憶をかき消していくのに対し、神社跡地に風が訪れる(その語源の通りまさに「音連れる」)とき、その音は喪われた何かを気配として「re-present」、つまり「代」わりに「表」しながら、いつまでも喪失と忘却の余韻を保ち続けるのです。

スクリーンに映し出されるテキスト

スクリーンに映し出されるテキスト

祖母の記憶(her stories)によって、個人が持ちうる普遍的な感情と、大文字の歴史との間で生じるコミュニケーションの揺らぎをあぶり出し、それをさらに戦争の記憶と、その記憶を喪失した現在とが二重化した土台(platform)の上に配置する…そうして立ち現れる空間は、さまざまな種類の主体と時間が複雑に絡み合う、まさに密林のような空間だといえるでしょう。その中を、観客は自らも祖母の記憶を共有(share)することを求められながら、彷徨うことになるのです。

長くなりましたが、だいたい以上が今回発表する新作『Platfrom for sharing her stories』をめぐって僕が考えたことです。おそらく同じ形での再展示は不可能なので、ここに文章として書き記しておきたいと思います。

夜、福島県沖を震源に震度3。今日は完封。

 

Posted: 1月 10th, 2013
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09/01/2013/WED/七百四十日目

多摩美で担当している講義、「パ」フォーミング・アーツの今年度最終日。

明日シンガポールへ出発するため、せっせと旅支度。

震度3以上の地震は観測されず。今日は完封。

Posted: 1月 9th, 2013
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08/01/2013/TUE/七百三十九日目

芸大に出勤すると、教室はがらんとして誰もおらず。おかしいなと思って助手さんに確認してみると、大学的にはもう冬期休暇期間は終わっているものの、今日は通常の火曜日の授業でなく、振替で金曜日の授業が開講されるとのこと。昨年暮れ、自分でもそう学生たちにアナウンスしたにも関わらず、うっかり忘れていました…。横浜から取手まではるばる出勤したのに無駄足です。こんなポカをやらかすのも、シンガポールでの展示を目前に控え、慌ただしくしているからでしょう。

震度3以上の地震は観測されず。今日は完封。

Posted: 1月 8th, 2013
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07/01/2013/MON/七百三十八日目

展覧会ためのプログラミングを頼んでいた高野君が自宅にきて、午前中からシステムのテスト。夜は「パ」ートナーが岐阜の実家から帰ってきました。しばらく離れていると彼女はいつも人見知りをするのです。震度3以上の地震は観測されず。今日は完封。

Posted: 1月 7th, 2013
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06/01/2013/SUN/七百三十七日目

一日中自宅に籠って作業。震度3以上の地震は観測されず。今日は完封です。

Posted: 1月 6th, 2013
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05/01/2013/SAT/七百三十六日目

シンガポールの展覧会のために一日中自宅に籠って作業。

福島の原「パ」ツ事故で埼玉県加須市に役場ごと避難している双葉町の井戸川克隆町長は、町への帰還時期を「暫定的に30年後」とする方針を示しました。町が具体的な帰還時期を示したのは初めてだそうです。帰還時期を30年後としたのは、汚染の主原因である放射性セシウム137の半減期が約30年のためだとか。

30年後の2043年、生きていれば僕は69歳。あなたは何歳ですか?。

震度3以上の地震は観測されず。今日は完封です。

Posted: 1月 5th, 2013
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04/01/2013/FRI/七百三十五日目

一日中自宅で作業。一度コーヒーを買いに外出しましたが、それ以外はずっと引きこもり。

福島の原「パ」ツ事故後2〜3カ月、足元のがれきなどが高線量であるにも関わらず、東京電力は作業員を胸部だけで放射線測定し作業させていたことが、元東電社員らの証言で分かりました。手足の被ばくは「末端部被曝」と呼ばれ、その場合は胸とは別に手足などへも線量計装着が法令で定められているそうです。2011年3月24日付の日誌に書いたような事故の背景には、こういうことがあったのだなと思いました。

韓国では過去に安全面の問題から停止されていたヨングァン原「パ」ツが再稼働したとか。

昼過ぎ、千葉県北東部を震源に震度3。今日は完封。

Posted: 1月 4th, 2013
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03/01/2013/THU/七百三十四日目

一日中自宅に籠って作業。改造を施したモバイルルーターのテストに失敗。誰とも会わず、誰とも口をきかず、地面の方も穏やかで、今日は完封です。

Posted: 1月 3rd, 2013
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02/01/2013/WEB/七百三十三日目

シンガポールの展覧会のために一日中自宅に籠って作業。モバイルルーターの回路をいじって、通電すると自動的に起動するように改造しました。「パ」ートナーは帰省しているため、しばらく独りぼっちです。自分がいると制作の邪魔になるとの彼女なりの気遣いから、少し長めに実家に滞在するつもりだとか。

夜、北海道、日高支庁東部を震源に震度3。今日は完封。

Posted: 1月 2nd, 2013
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01/01/2013/TUE/七百三十二日目

このところずっとシンガポールで発表する作品の制作で慌ただしくしているのですが、さすがに元旦くらいは一息つこうと、母お手製のおせち料理を食べに実家へ帰りました。

「パ」と言えない人生を生きはじめてから今日で丸二年。そもそも一年間の「パ」フォーマンスとして始めたこの『「パ」日誌メント』ですが、この日誌を更新した時点で、既に2013年いっぱいの上演が確定しています。再びこの口で「パ」と発音できるのは、まだまだ遠い日のことになりそうです。さすがにこんなことを二年間も続けていると、「パ」裂を避けることに関してはだいぶ熟練してきて、最近は月に2〜3回の「パ」裂で済むようになってきています。問題は、そう、日誌の更新の方ですね。2011年4月19日の日誌で追って誓約された通り、『「パ」日誌メント』は、「パ」と一回口を滑らせてしまった場合だけでなく、日誌の更新が一日滞った場合にも上演期間が一日延長されることになっています。今では「パ」と口を滑らせてしまうことよりも、日誌の更新停滞の方が負債を抱える主な原因となっています。思わず自暴自棄になって、借金苦に喘ぐ中小企業の薄幸な社長のように、もういっその事「パ」もろとも無理心中を図ってやろうか、とよからぬ考えが頭をよぎったりもするのですが、あなたの声が耳の奥で聴こえるたびに、気を取り直して、自分はこの「パ」と言えない人生を生きなければならないと思い直すのです。

思えば僕が「パ」と言えなくなってから、この世の中は大きく変わりました。2013年の元旦の静けさの中に、時代の不穏な足音を聴くのは僕だけではないでしょう。とにかく、泣いても笑ってもまた年が明けました。

昼頃、岩手県沖を震源に震度3。今日は完封です。

Posted: 1月 1st, 2013
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↓2012年未更新分、現在執筆中↑

未更新分、現在執筆中。

Posted: 1月 1st, 2013
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