News for 4月 2012

07/04/2012/SAT/四百六十三日目

岩手県は大船渡市に「碁石海岸」と呼ばれる、丸くて黒い石が、浜一面に敷き詰められた海岸があります。引いては寄せる波に無数の碁石が「カラカラカラ…、コロコロコロ…」と、何ともいえない音をたてる不思議な海岸です。以前僕が碁石海岸を訪れたのは、たしか2003年のことだったと思いますが、この音にじっと耳を澄ませた時のことは忘れられません。

先の震災で大船渡は津波による甚大な被害を受けました。あれから碁石海岸がどうなったか、大船渡と気仙地域の人々がどうしているのか、ずっと気になっていながらも僕は現地に赴くことができないでいました。震災直後、何かしなければと僕の周りの多くの人たちが気仙地域には行きましたし、あるキュレーターからは「アーティストなら行くべきだ」とまで言われたのですが、結局行けないまま…、というか「行かないまま」一年が過ぎました。そんな矢先、5月に大船渡で開催される復興支援フェスティバルに参加しないか、との誘いを受けたのをきっかけに、ようやく大船渡を再訪してみようと、思えるようになりました。今日はそのフェスティバルの現場を下見するために、朝一番で上野駅から東北新幹線に乗り込んで、大船渡へ向かいました。

途中、新幹線は福島県を通ります。一緒にフェスティバルに参加するアーティストの池田君、村上君、そして東大の山村さんの4人で歓談しながら、僕は持参したガイガーカウンター(Dose RAE2)で、車内の空間放射線量をずっと測っていました。上野から大宮、栃木を過ぎ、福島の白河あたりまではさほど線量に変動はなかったのですが、郡山に近づいたところで、一気にガイガーカウンターの示す数字が0.6μSv/hまで跳ね上がりました。するとなんだか身体の筋肉がこわばって呼吸が苦しくなってきました。放射能による健康被害には諸説ありますが、0.6μSv/h程度の空間に数時間いたところで大した健康被害はないだろう、ということは僕も分かっているつもりです。しかしいくら理性でそのように判断していても、心理的には呼吸することへの抵抗感をぬぐい去ることはできません。たかが0.6μSv/hで大げさな、と笑う人もいるでしょう。自らが科学的で理性的であると自負する人は、放射能を恐れる人を指して「放射脳」と揶揄しますが、もしこの空間で気持ちよく深呼吸できる人がいたとしたら、それはそれで何かが麻痺していると思わざるを得ません。高速で走る新幹線の車内でこの数値ですから、きっと窓の外はもっと汚染されているはずです(後で知った文科省の発表によれば、この日、この時間の郡山駅東口の放射線量は1.047μSv/hとのことでした)。福島県内にはさらに放射線量が高い地域がたくさんあります。レベル7という世界史上最悪の原「パ」ツ事故がもたらした、この重い現実をどう受け止めたらよいのか、僕にはよくわかりません。厄介なのは、この現実の重さがいかほどのものなのか、まだ誰も知らないということです。はっきりしているのは福島県では未だに16万人もの人びとが家に帰れずに、避難生活を送っているということです。郡山市は政府の指定する警戒区域にも、避難支持区域にも当てはまりませんが、ここに留まるべきか否か、人々は孤独な選択を強いられています。この一年で、郡山市の人口はおよそ1万人も減ったそうです。ある人はここに留まることを選び、またある人は県外への移住を選び、離ればなれになってしまった家族も多いそうです。放射能は人体のDNAのみならず、人々の関係をも破壊しています。あなたがこれを読む頃、郡山はどうなっていますか?いくらか汚染もましになっていますか?人々の暮らしはどうでしょうか?

新幹線が福島駅を過ぎて宮城県に入ると、ガイガーカウンターが示す数字はぐんぐん下がりはじめ、0.07μSv/h程度にまで落ち着きました。すると身体の力が抜けて呼吸も軽くなりました。またしばらくすると、新幹線は宮城県から岩手県に入り、水沢江刺駅に到着しました。以前は東京から大船渡へ行くには、東北新幹線で一ノ関まで行き、そこからJR大船渡線に乗り換えたのですが、昨年の津波でJR大船渡線の大船渡駅をはじめとする6駅が跡形も無く流失、気仙沼駅~盛駅間の177カ所が壊滅的被害を受け、この区間は震災から一年経った今でも不通の状態が続いています。そのため今回は東京から一ノ関を通り超して、水沢江刺までいき、水沢江刺から車で大船渡へと向かいました。水沢江刺と大船渡との間にはばかる山々は、もう4月だというのにまだ雪をかぶっていました。そのせいで途中、通行止めに出くわしながら、僕らは国道397号線を住田へと抜け、高田街道を南下、陸前高田市に入って少しすると、津波の被害が最もひどかった平野に辿り着きました。

真っ青な空の下、そこには何もありませんでした…。言い換えるならば、そこに在ったのは巨大な「無」だけでした。震災から一年が経っていますから、瓦礫はほとんど整理され、国道沿いに果てしない山脈を成すようにして積み上げられています。それ以外の場所は広大で乾いた灰色の更地になっていて、区画の痕跡が縦横に筋を描いて走っていました。ここに来て、この景色を見たとき、僕は自分が大きなショックを受けるだろうと覚悟していました。しかし実際には、その景色を眺める僕の心は拍子抜けするほど乾いていました。

とても冷たい風が吹いていました。僕は肩を窄めながら、着ていた上着のジッパーを上げました。自分の網膜に映る現実と、自分の意識との間にだんだんと折り合いがついてくると、今度は既視感のような感覚を覚えはじめたのでした。この場所を震災が襲うよりもずっと前から、僕はこの巨大な無の風景を、自分の生活する日常的な都市の深層にみてきたのだと思いました。その既視感の源には、今まで何度も写真でみてきた東京大空襲や、関東大震災直後の、あの焼け野原の風景があるのだと思います。このような巨大な無の風景は僕の中に「終末の風景」ではなく、「原風景」として刻まれているのかも知れません。

瓦礫の山に近づいて辺りの空間放射線量を測ってみます。するとガイガーカウンターは0.04μSv/hという数字を示しました。瓦礫にじか置きで計測しても0.08μSv/h。東京の方が汚染されているようです。様々なポイントを測定しながら、僕は「瓦礫」として抽象化された塊を構成する、一つ一つの「もの」に、自分の目で光をあて、それぞれに宿る記憶を丁寧に想像して回りました。建材に使われていた木片…、車のタイヤ…、絨毯…、衣装ケースのふた…、窓枠…、ひしゃげた流し台…、子供のおもちゃ…畳、テレビ…ハンガー…、根こそぎ抜かれた樹木…、女ものの上着…、スーパーのビニール袋…、金網のフェンス…、絡まった電線…、ドア…、スプーン…、笹藪の塊…、破れたふすま…、誰かの靴…、錆びたドラム缶…、庭石…、ビールケース…、風呂場のマット…、ガス用の配管の管…。

人間の生活を構成していたありとあらゆるものが、ぐちゃぐちゃにミックスされて出来上がった塊を、人々は「瓦礫」と呼びます。しかしこうやって一つ一つの「もの」に注視すると、すべての「もの」は元々誰かの生活の一部であり、それには泥と一緒にもとの持ち主の「生の痕跡」がこびりついていることが良く分かります。しかし、これらの「もの」の集合体を一言でひっくるめて「瓦礫」と呼ぶとき、途端に細部に宿る「生の痕跡」は捨象されてしまうのです。「瓦礫」でも「被災地」でも「被災者」でも良いのですが、そうやって何か、何処か、誰かを言葉で一括りにしたとき、必ずこの残酷な捨象が行われます。もちろんこの残酷な捨象なくして復興へと具体的に物事を進めていくことはできないでしょう。しかし今のこの国で、人々が言葉によって行っている捨象はあまりに残酷すぎて僕は苦しくなるのです。2011年4月19日に書いた「パ」の買い主さんへの陳謝の中で、「自分はかつて言葉を憎んでいた、何故ならば言葉にすることで消えてしまうことがあるからだ」といったようなことを書きましたが、人間というのは、この複雑で広大な世界を、言葉によって分類し、簡略化し、ある部分を抽象し、ある部分を捨象することでしか認識できない生き物です。僕が震災から一年経って、ここへ来てみようと思ったのは、現場から遠く離れて「瓦礫」「被災地」「被災者」といった言葉が交わされていく内に、言葉の有限性が非常に狭くて残酷な環境を作り出し、自分もそこに囚われていると感じたからでした。僕は実際に「被災地」と呼ばれる場所を訪れて呼吸し、「瓦礫」と呼ばれるものを見て触り、「被災者」と呼ばれる人に会って話すことで、言語化されることによって切り捨てられたものを、すくいとりたいと思ったのです。

僕らは陸前高田を後にし、フェスティバルの会場となる大船渡のサンアンドレス公園に向かいました。港に面したサンアンドレス公園の被害も甚大で、モニュメントや建物は破壊され、幹からへし折られた樹々が無惨な姿をさらしていました。もはやここは「公園」ではなく「公園跡地」と言った方がいいでしょう。流されずに済んだ展望塔に登ってみると、誰かが折った千羽鶴が海風に揺れていました。確か2003年にも僕はここに来ているはずです。しかし塔から望む公園の変わり果てた風景に、果たして自分が以前、本当にここへ来たのか疑わしく思えてきました。そんな僕に「お前は以前ここに来た」と教えてくれたのは、塔の周りを飛ぶウミネコたちの声でした。目に映るものすべてが変わり果てた中で、耳の聴こえるウミネコたちの声だけは、あのときと同じだったのです。塔を降り、根こそぎ引き抜かれた木、根が残っても幹から先が無惨に持っていかれた木が多くある中で、何とか立ち続けた何本かの木の枝先を注意深く見てみると、なんと青い芽が生きていました。桜の木です。潮にのまれ、昨年は咲かなかった桜が、きっと今年は咲くでしょう。ふと足もとを見てみると、枯れた地にところどころ緑色の雑草たちが根を張っていました。復興しはじめているのは、植物たちばかりではありません。津波で何もかも流された、公園から少し離れた土地に、『屋台村』と呼ばれるプレハブ建ての仮設商店街があり、地元の人々や復興支援ボランティアの若者たちで賑わっていました。それは砂漠にはられた遊牧民のテントの集落を彷彿とさせました。日が落ちたので夕食を食べようと、僕らは屋台村の中にある『おふくろの味 えんがわ』という店に入りました。小さな店内には先客がおり、地元の二人のおじさんたちが晩酌をしていました。話をしてみると、津波で家を流され、職を失い、現在は仮設住宅に住みながら、瓦礫の分別作業に従事しているとのことでした。「まだ仕事があるだけありがたいねぇ」。控えめな東北弁で、そう話すその人の目は、月光を映す夜の海の水面のような澄んだ闇をたたえていました。

震度3以上の地震は観測されず。今日は完封。

Posted: 4月 7th, 2012
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06/04/2012/FRI/四百六十二日目

柏崎刈羽原原「パ」ツが停止し、東電管内のすべての原「パ」ツが停止したことは3月26日の日誌に書きました。現在日本で動いている原「パ」ツは北海道電力の泊原発3号機一基のみ。この泊原「パ」ツ3号機も、5月5日には定期検査のため停止する予定で、もしそれまでに再稼働する原「パ」ツがなければ、国内すべての原「パ」ツが停止するという歴史的な事態を迎えることになります。

しかし政府は、原「パ」ツゼロ状態をつくってしまうと、国民が原「パ」ツなしでも十分やっていけることを悟ってしまい、再び原「パ」ツを動かしにくくなることを恐れ、泊3号機停止前に大飯原「パ」ツ(関西電力)を稼働しようと必死になっています。福島第一原「パ」ツの事故の検証も済んでおらず、各原「パ」ツの安全対策も万全からほど遠い状態で、政治的な判断のみで再稼働へ進もうとするこの政府のやり方には強い怒りを覚えます。

今日はそんな政府の大飯原パ「ツ」再稼働へ向けた動きに抗議するため、首相官邸前で行われている抗議行動に参加してきました。しかし当然僕は「パ」と言えません。「原「パ」ツ、いらない!原「パ」ツ、いらない!」と熱くコールする1000人もの人たちに混じって、僕はひたすら「……、いらない!、……、いらない!」とコールするしかありませんでした。

今日はなんだか肌寒く、抗議を終えて帰路に着くころには、ぱらぱらと雹が。目立った地震もなく、今日は完封です。

Posted: 4月 6th, 2012
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05/04/2012/THU/四百六十一日目

芸大上野校地で会議のため、外出しました。今日から普通の生活に復帰です。病み上がりでかなり体力が落ちているので、電車に乗るだけでも消耗します。駅を出ると上野公園の桜は満開で、桜色と空の紺碧とが鮮やかな対照をなす下、多くの人が花見に興じていました。春の空気が重たく感じられたのは、病み上がりのせいばかりではないと思います。季節が運んでくる空気というのは、理性を超えて深層の記憶に働きかけてくるものですが、この生暖い空気に触れると、否応にも去年の春のことが蘇ってくるのです。この春の空気の重さと、桜の色の軽やかさとが、僕にはどうしてもちぐはぐに感じられてしまってなりません。

今日も比較的地面は穏やか、完封です。

Posted: 4月 5th, 2012
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04/04/2012/WED/四百六十日目

インフルエンザで倒れてから一週間目。もう熱は下がり、体感的には完治したように感じられるのですが、インフルエンザは発症してから7日間はウイルスを排出するとのことなので、今日までは外出を控えています。

ちび太は最近、カゴの中につり下げられたおもちゃにコウモリのように逆さまにぶら下がったり、くちばしだけでぶら下がったりと、かなりアクロバチックな遊びをするようになりました。

地面は穏やか、そして今日は完封です。

Posted: 4月 4th, 2012
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03/04/2012/TUE/四百五十九日目

もうほとんど熱は下がったのですが、念のため今日も一日中家で安静にしていました。
未明、宮城県沖を震源に震度3。今日は完封。

Posted: 4月 3rd, 2012
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02/04/2012/MON/四百五十八日目

今日は一日中、ベッドで安静にしていました。
地面の方も比較的安静で、大きな地震は観測されず。今日は完封。

Posted: 4月 2nd, 2012
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01/04/2012/SUN/四百五十七日目

今日はアートフェア東京の最終日だったので、展示の撤収に行きました。まだインフルエンザの方は治っていませんが、おかげさまで峠は越えた模様です。

今日は未明に茨城県北部を震源に震度3。そして夜11時すぎに、福島県沖を震源に震度5弱の地震がありました。福島で地震が起こるたびに、原「パ」ツに何かあったらと背筋が凍り付く想いです。特に福島第一原「パ」ツ4号機の使用済み燃料プールには1500本以上の燃料棒が入っているとされ、強い地震によって建屋が崩壊したり、プールの水が漏れて空焚き状態になった場合、大量の放射能が拡散し、今度こそ日本は終わるでしょう。
そして今日は完封。
Posted: 4月 1st, 2012
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