09/04/2011/SAT/九十六日目

朝、群馬、茨城で震度3。昼、茨城、宮城で震度3。夕方、宮城で震度5弱、茨城で震度4。

インディペンデント・キュレーターの窪田研二さんが今回の震災を受けて設立した「Japan Art Donation」。その「Japan Art Donation」主催のチャリティー展、「Art for Tommorrow」が、渋谷ワンダーサイトで始まった。作品の販売によって得られた収益は全額、被災地復興支援にあてられるという。

実はこの「Art for Tommorrow」へは、私にも参加の打診があった。
しかし私はそれに対して返事を返さず、事実上それを辞退した。

そもそもこの『「パ」日誌メント』のアイディアは窪田さんとの縁によって生まれたものだった。昨年10月に青山スパイラルで開催されたアートフェア「ULTRA003」に、窪田さんの主宰するSNOW Contemporaryが出展するにあたり、「代表作家として山川さんを出したいので販売可能な作品を作れるか?」という窪田さんからの”問い”に対する、私の”答え”がこの『「パ」日誌メント』だったのだ。

『「パ」日誌メント』は、個人コレクターに販売した私の初めての作品である。「出演料」という形で表現活動の対価を得ることが主な私は、それまで自分の作品を個人コレクターに販売しようと考えたことは一度もなかったし、どちらかというとそのことに対する漠然とした抵抗感すら持っていた。だからこそ敢えて ”この資本主義社会に生きながら、アーティストにとって個人コレクターに作品を売るとは一体どういうことなのか?” という問いへの解を、自らが体感的に求めるために、この『「パ」日誌メント』をはじめたのである。

投げかけられた問いへの答えが得られていないのに、「被災者のために」という大義を背負って、チャリティー展に参加することは私にはできない。窪田さんに返事を返さなかったのは…より正確に言うなら「返せなかった」のは…、チャリティー展の、作品販売によって得られた収益を被災地復興支援にあてる、というやり方に私が感じた違和感を、その時うまく言葉にできなかったからだろう。その違和感とは ”アーティストにとって、コレクターに作品を売るとは一体どういうことなのか?” という私の問いが、 ”被災地支援” という答えに直結してしまうという、”Trade” と “Donation” を巡る、ちぐはぐさへの違和感だったのだと、後になって分かってきた。

実際に値段がつけられ、アートマーケットで売買されたとしても、アート作品には決して数字で測り得ない価値がある。だからこそ私は、アート作品とTradeされる、お金そのものにも、額面では測り得ない価値を求めたいと思う。

私は、『「パ」日誌メント』の対価として支払われた代金100万円を、『「パ」日誌メント』を取り扱うギャラリーにあたる、窪田さん主宰のアート・プロダクション「SNOW Contemporary」を介さずに、買い主から直接私の口座に振り込まれるようにしてもらった。つまり『「パ」日誌メント』の取引において、中間マージンは発生していないのだ。その代わりに、私から「SNOW Contemporary」に支払うべき別のプロジェクトのマネージメント料に、『「パ」日誌メント』の取引にかかる中間マージン相当の金額を上乗せする形で差額を相殺したのだった。

私がわざわざこのようなことをしたのは、この『「パ」日誌メント』に「”100万円”出そう」と決めた買い主の決意を、そのままストレートに受け取りたいと思ったからだ。私は私の作品に対して支払われた100万円というお金には、買い主の私の作品や、私というアーティストに対する評価やリスペクトといった、肯定的な意思が込められていると信じたい。そして、そのような意思が込められた100万円というお金に、私は額面では測れない価値が存在すると考える。そのような額面価値を超えたお金と自分の作品がTradeされる時、私はアートマーケットにおいてはじめてフェアなTradeがなされたと納得することができる。そこで買い主によって”払われる”のは金銭だけではない。同時にリスペクトが、作品へそしてアーティストへ”払われている”のだ。私が私の作品を構成する労働や材料費といった数字で測れる価値以外の、芸術的価値といったものと本当の意味でTradeするに値すると思えるのは、何よりまずこのリスペクトなのである。

チャリティー展でコレクターが作品に対して払ったお金に、作品とアーティストに対するリスペクトが込められているとするならば、払われたお金が作品と直接Tradeされずに、被災地の復興支援にあてられるとき、作品とアーティストへ”払われた”コレクターのリスペクトは一体どこへ行くのだろう?

あるいはコレクターが作品を買う動機が、まず第一に被災地支援にあった場合、そこでの作品とは募金のオマケのような物になってしまわないだろうか?。払われたお金に作品とアーティストへのリスペクトが込められていないとするならば、そもそもアーティストが自分の作品をコレクターに売るとは、一体どういうことなのだろう?

いろいろ思うところはあるけれど、被災地支援のために一円でも多くのお金が集まることは良いことに違いない。チャリティー展のTradeとDonationを巡る特殊なお金と価値の流れを、一つに合流させるようなアイディアも考えられただろうし、そもそも私が求められたのは作品の提供ではなく上演形式のパフォーマンス参加であること(一対一のTradeとは異なる)、「Japan Art Donation」が集まった義援金を芸術に還元することで、芸術による被災地支援を謳っていることなどを考えても、今回の「Art for Tommorrow」が、ここまで私が述べてきたような側面だけでは捉えきれないのだ、とは思う。しかしそれでも私は一人のアーティストの立ち場で考えた時に、チャリティー展の構造に違和感を感じ、そこに乗れなかったのだった。

1月26日誌に書いたように、預金通帳に印刷された数字を見たときは、私の「パ」という音節に対して払われた100万円というお金に対してあまり実感が湧かなかったのだが、今回のことを通してだんだんと実感が湧いてきている。

今日は完封。

ここまでの成績…
積算上演日数:531日(±0)
終演まで:432日(-1)
終演見込み日:2012年6月14日(±0)

Posted: 4月 9th, 2011
Categories: パ日誌
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