07/02/2011/MON:三十八日目

舞台『金閣寺』がはじまってからというもの、私の頭の中は三島の血塗られた言葉で染まりはじめている。その言葉は1970年11月25日に市ヶ谷駐屯地の総監室で流された血の温もりを、未だに保ち続けているように感じられてならない。

そして今日は『金閣寺』9公演目。

仕事を終え、劇場から帰宅した私は梶井基次郎の短編小説『檸檬』のことが気になっていた。そこで急遽「パ」ートナーをつかまえて、彼女を相手に『檸檬』を読んで聞かせる小さな朗読会を開く。もちろん「パ」の音はうまく避けながら。

『金閣寺』の中で溝口と柏木が、世界を変貌させるのは「行為」か「認識」かと言い争う場面があるが、それで思い出されたのがこの短編小説のことだった。丸善で自ら積み重ねた画集のてっぺんに一つの檸檬を置き去りにし、それを”黄金色に輝く恐ろしい爆弾”と「想像的に認識」することによって、心の中で現実の象徴たる丸善を爆破する男の話である。

舞台版『金閣寺』では省かれているが、原作で溝口は金閣寺を燃やす直前になって、柏木の言葉を思い出してこんなことを言うのだ。

”柏木の言ったことはおそらく本当だ。世界を変えるのは行為でなく認識だと彼は言った。そしてぎりぎりまで行為を模倣しようとする認識もあるのだ。私の認識はこの種のものだった。そして行為を本当に無効にするのもこの種の認識なのだ。してみると私の永い周到な準備は、ひとえに、行為をしなくてもよいという最後の認識のためではなかったか。”

私がこのところずっと気になっているのは、一度はこのように悟った溝口を、最後の最後に「行為」へと弾いた発条(ばね)のことである。そして劇団のように見える民兵を模した組織をつくったり、カメラの前で切腹の芝居をして見せたりすることで「ぎりぎりまで行為を模倣」していた三島(金閣寺の執筆も行為の模倣であったと思われる)を、最後の最後に「行為の模倣」から「行為」へと弾いた発条(ばね)のことである。

破滅的な瞬間にこそ、生命的な瞬間が訪れることは私も知っている。その生命的な瞬間を求めて私は自分のライブで心臓の鼓動を停めてみせるのだ。その時の私は「ぎりぎりまで行為を模倣」しているのだろう。そして自分自身を「行為」へと弾きかねない発条(ばね)は、やはり私の中にも潜勢していて、三島の言葉に向き合えば向き合うほど、その発条(ばね)が、三島の発条(ばね)と同じ振動数で共鳴しはじめ、破滅へと引っぱられているような気がして怖いのだ。

だからだろう。『檸檬』を読みたくなったのは。「ぎりぎりまで行為を模倣する認識」にも遠く及ばない、いたずらのような小さな「行為」を、想像力によって強大な「行為」にまで膨らませ、「認識」によってそれを現実化しながら、また日常へと戻っていく主人公。このところ破滅的引力を持った三島の言葉に引っぱられつつある私は、実際には破滅などせず、妄想を妄想で爆破して生き存えるこの主人公の姿に、何か救いのようなものを求めていたのだと思う。

このところ、私は命が惜しくなってきた。以前は破滅に身を投じるための理由をいつも探しながら生きていたのに、今の私は素直に生き存えたいと思っている。破滅的な瞬間以外にも生命的な瞬間はあるのか?という問いに、ある確信を持ちはじめているからだろう。そういえば、私は『「パ」日誌メント』の誓約書に、契約期間中、私が死亡してしまった場合のことを盛り込んでいなかった。誓約書に「死亡」の文字がないということは、すなわち私が生き続けることも暗に誓約されているということになるだろう。一生終わらないのではとも思えるこの「パ」フォーマンスを終えるまで、私には生き続ける義務があるのだ。

というわけで今日も完封。3日連続の完封は初めてである。連続完封記録更新。

ここまでの成績…
積算上演日数:427日(前日比 ±0日)
終演まで:389日(前日比 -1日)
終演見込み日:2012年3月2日(前日比 ±0日)

Posted: 2月 7th, 2011
Categories: パ日誌
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