01/02/2011/TUE:三十二日目

昼:たまごサンド
夜:ナスのカレー、玄米ご飯

『金閣寺』三日目。

今日もまたほぼ全席が女性で埋め尽くされていた。

そして終演後のカーテンコール。

主演で溝口役の森田さんが客席に向かって手を振った瞬間、それに反応して何千という手のひらが一糸乱れぬ恐るべき瞬発力で、一斉にひらめいた。大規模なマスゲームを見るようなその壮観な風景に、思わず感嘆の声をあげる私。

「うわーっ!すげーっ!」

驚きのあまり出演者である自らの立場も忘れて、隣に立っている岡本麗さんと中越典子さんに話しかけてしまう。

私:「すごいですねー!、”笑っていいとも”のアレができそうですねぇ!」

岡本さん:「えっ…?笑っていいとものアレって何ですか…?」

私:「ほら、タモリが指揮する”パンパンパンッ”っていうアレですよ!」

地雷ワード、”パンパンパン”、パ裂。

これは痛い。一度に三連「パ」ツである。観客を舞台の上から冗談のネタにした罰(ばち)があたったのだろう。

罰があたったついでに白状すると、実は私はこの舞台の最後にカーテンコールなどあるべきではないと考えていた。ラストシーンで金閣を燃やし終えた溝口が、虚構から現実、舞台から客席へと境界を越境し、アノニマスな存在として観客に同化していくあの余韻が、カーテンコールの存在によって、”リアリティ”を模倣するポーズで終わってしまうと感じたからだ。潔く超えられた境界は、超えられた状態のまま永遠化するのが美しい。ああいう終わり方をする以上、私にはカーテンコールが野暮に感じられて仕方なかったのである。

しかしそれ以前に尺然としないのは、そもそものこの舞台での私の役割である。配役クレジットでは、「鳳凰:山川冬樹」となっている。金閣の頂に据えられたあの鳳凰のことである。しかし台本で私の出る場面のト書きには「鳳凰」ではなく「金閣を象徴する男」と記されている。私は鳳凰役として鳥を演じているわけではないし、金閣役として建物を演じているわけでもない。いったい自分が何の役なのか、いまだにあやふやなままなのだ。

このあやふやさは、金閣の美というものが、主人公溝口の主観の中だけに描き出された実体なきものであり、そもそも配役という形で客体化しようのないものであることに根ざしているのだろう。宮本亜門版『金閣寺』において特に独創的なのは、ある種の”リアリティ”を装いつつも、一方ではこのような個人の主観の中だけに存在する、客体化しようのない妄想のようなものを、果敢にも客体化しようとしている点にあるのだと思う。この舞台を見た人の多くは、私という存在による金閣の美の客体化を「擬人化」あるいは「象徴化」という言葉を使って表現するが、「擬人」というならもっとペラペラと人の言葉で台詞を喋ってもよさそうなものだし、「象徴」というには私の存在はまがまがし過ぎる。ここでは実体のないものに、まがまがしく具体的な人の形が与えられているばかりか、それがさらに崇められているという意味で「偶像化」という言葉が最も的を射ていると思われる。つまり、この舞台での私の役割とは金閣の美の「偶像」として、英訳すれば、溝口の”idol”として存在することなのだ。

しかしカーテンコールになった途端、劇中で溝口に崇められるべき”idol”は、見事にその座を引きずり降ろされてしまう。そして突如として底辺で虐げられていた溝口が華々しい”idol”に…、物語になぞらえて言えば、まさに”金閣”そのものに変貌するのである。いつの間にか私はこのカーテンコールでの劇的な下克上を、舞台で繰り広げられる演劇の延長として楽しむようになっていた。溝口が金閣になったなら、引きずり降ろされた私は溝口か?。いやいや、そうではないだろう。私は”溝口役の人物”(つまり森田剛さん)を実体の伴った共演者として尊敬していても、溝口が金閣を愛するような形で愛してなどないからだ。

溝口は非常に強いエネルギーをもって、金閣に耽溺し、理想を重ね、生きる生きがいとして崇め、執着し、自らを支配させていた。金閣を燃やさねばならなかったのは、その強烈な想いゆえである。溝口の行為は社会的規範で考えれば犯罪として認識されるが、エネルギーにはそもそも善悪などないのだ。原子核融合によって生じるエネルギーが、太陽の恵みとしてこの星を存続させている一方で、大量破壊兵器としてこの星を滅ぼしかねないように、エネルギーとはその最終的な現れ方の形によって、結果的に善悪に分別されるに過ぎない。

言うまでもなく、ここで金閣へと向けられた溝口の強烈なエネルギーと重なるのは、”溝口役の人物”へと向けられた数千もの女性客たちの熱愛のエネルギーである。客席を埋め尽くす彼女たちは、ちょうど溝口が金閣に対してそうであったように、主演の森田さんに耽溺し、理想を重ね、生きる生きがいとして崇め、執着し、自らを支配させているように見える。そしてそのエネルギーは本質的には良いも悪いもない、ただのエネルギーなのだ。だからこそ私は、とてつもないエネルギーがただそこに存在していることに、驚かされ、感心し、興味深く傍観するのだろう。つまるところ、先に書いた「うわー!すげー!」という正直な感嘆が示しているように、カーテンコールの場において私は舞台に立ちながらも、いつの間にか「観客」に変貌しているのである。

溝口が金閣となり…、観客が溝口となり…、金閣が観客となる…。

最後の最後に三者の間で立場が交換されるという、この三面鏡のような構造を持ったからくりを仕組んでみせる宮本亜門さんという人は恐るべき演出家である。この大どんでん返しを前には、溝口が観客に同化するというラストの演出を”リアリティ”を模倣するポーズだと疑問を抱く私の視点など、もはや偏狭なものでしかないだろう。やはり、この作品にはカーテンコールはなければならないし、客席は森田剛ファンで埋め尽くされなければならないのだ。

チラシの宣伝文句には「今という時代を生きるすべての人に、生きる目標・意味について切実な問いを投げかける」とあるが、その問いかけは劇中の芝居によってではなく、こうしたメタレベルで引き起こされる一連の現象によって果たされているように思われる。「金閣を生きる目標・意味」とする溝口の姿が、「天皇を生きる目標・意味」とした三島の分身であることは明らかだ。”無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国”となった現在の日本において、溝口と三島の姿に、「”溝口役の人物”を生きる目標・意味」とする女性客たちの姿を、劇場空間で直接重ね合わせてみせる試みこそが、この舞台における”リアリティ”への態度であり、最も重要なコンセプトとなっているのは間違いない。

さて、公演を終えて自宅に帰ると、台所のテーブル上に何やら得たいの知れない黄色い物体が入ったボウルが放置されていた。「パ」ートナーの仕業だろう。さては私が帰る少し前まで黙々と料理の研究していたようである。一見しただけでは、その奇妙な黄色い物体が、トロトロの液体であるのか、はたまたフワフワの個体であるのか判別できなかった。別室でごろごろしている「パ」ートナーに、大きな声でその物体の正体を問いただす。

私:「ねぇ!この黄色いの何?蒸しパン?」

地雷ワード、”蒸しパン”、パ裂。

結局正解は、トロトロの液体、失敗したシチューだった。「何言ってんの?どう見てもシチューじゃん」と突っ込まれる私。

というわけで、ここまでの成績…。
積算上演日数:426日(前日比 +4日)
終演まで:394日(前日比 +3日)
終演見込み日:2012年3月1日(前日比 +4日)

Posted: 2月 1st, 2011
Categories: パ日誌
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