26/01/2011/WED:口座開設

昼:ラーメン、餃子
夜:豆乳ハンバーグ、ポテトとベーコンのローズマリー炒め、サーモンとルッコラのサラダ、野菜のミネストローネ

年が「パ」けて以来、やっと平日の昼間に時間がとれたので銀行へ。「パ」の買い主からは昨年のうちに「パ」の代金¥1,000,000が私の口座に振り込まれていたのだが、そのお金を最初の預け入れ金として新たに口座を開設するため、窓口へ出向く。

口座開設申し込み用紙に必要事項を記入し、カウンターへ。すると、銀行員に開設の理由を尋ねられた。しかし考えてみれば「パ」に支払われたお金は他とは別にしておきたい、という漠然とした理由以外、口座開設の理由らしい理由は見当たらない。返答に困る私。

銀行員:「貯金ですか?」

私:「あっ、そうかも…。普通に言えば、そういうことになるかも知れません。」

曖昧な返答に怪訝な顔をされつつも、何とか無事に口座開設は認められ、私はまっさらな預金通帳を受け取ることができた。通帳を開いてみると最初のページに「1,000,000」という数字が冷たく、ただ整然と印刷されている。

果たしてこの取引によって何が動いたのだろう?と思った。私の「パ」…、そしてこの通帳に記入された「1,000,000」という数字…、交換されたそれらの実体はどこにあるのだろう?

「パ」の買い主は、私から「パ」を買ったことを直接的には確認することができない。私の「パ」の所有権が自らの手に渡ったことを証明するのは、誓約書という一枚の頼りない紙切れである。私は私で、自分の「パ」という音節と交換された¥1,000,000という価値を、通帳に印刷された数字の羅列でしか確認することができない。あるいは口座から現金を引き出して100枚の万札を手にしてみたら、自分の「パ」と交換された価値を実感することができるのだろうか…。もしかしたらそれで何らかの実感のようなものは得られるかも知れないが、本来的にはその紙幣も私が書いた誓約書も同じ紙切れにすぎないはずだ。端的に言えば『「パ」日誌メント』で交換されたのは紙なのだ。しかし紙幣という紙が単なる紙ではなく、呪いがかけられた紙であることを私たちは知っている。札束を手にしたときに得られる実感らしきものは、まさにその呪いの仕業である。それと同じように私の書いた誓約書にも呪いがかけられている。ただし、その呪いは私の力によってかけられたのではない。むしろ、買い主によってかけられたと言えるだろう。つまりアートへの信仰のもと、¥1,000,000という価値と交換された時点ではじめて私の書いた誓約書は呪いの紙と化したのだ。

紙幣が単なる紙だとその正体を暴いたところで、呪いが解かれることはないだろう。それほどまでにその呪いは私たちの社会にとって自明なものとなっていて、誰もその呪縛から自由ではない。だから私は「パ」の対価として支払われた¥1,000,000を、誰とでもその金額に相当するとされる価値と交換することができるのだ。さて、何を買おうか?車?ロレックス?豪勢に海外旅行にでも行くか?キャビアでもたらふく喰うか?あるいはアート作品でも買おうか?…そんな風に金の使い道を妄想するのは楽しいものだ。しかし私がそのつもりならば、銀行員に「貯金です」と即答することができただろう。私がわざわざ新しい口座を開設してまでこの¥1,000,000を隔離ようと思ったのは、おそらく、アート市場で得たお金を、自分の生活のお金と一緒にしておくことで、知らず知らずの内にまた資本主義経済のサイクルの中へと消費する形で還元してしまいたくなかったからなのだろう。

私の「パ」は¥1,000,000に化けた。そしてまたこの¥1,000,000が、数字を超えた別の価値に化ける日がきっと来るはずだ。その日が来るまで、私は買い主から支払われたこのお金には手をつけないと心に決めている。それまでこの¥1,000,000は、実際の振動として発せられることのない私の「パ」という声と同じように、あるいはまだ産まれない胎児のように、「銀行口座」という仮想の空間で潜勢し続ける。

かくして、私は「パ」に支払われた¥1,000,000を「貯金」した。

さて、話は変わるが、最近iphoneの調子が悪い。Softbankのサポートセンターに電話してみたものの、一向にらちがあかない。先方の応対に少しイライラして、技術的に込み入った話になってきたところで、口が滑った。

地雷ワード”電波”、パ裂。

積算上演日数:415日(前日比 +1日)
終演まで:389日(前日比 ±0日)
終演見込み日:2012年2月19日(前日比 +1日)

Posted: 1月 26th, 2011
Categories: パ日誌
Tags:
Comments: No Comments.