16/10/2011/SUN/二百四十五日目

『東京藝術発電所』最終日。今日はクロージング・イベントとして『発電ライブ・パフォーマンス』が催された。

『東京藝術発電所』は、実験工房としての機能も合わせもっており、会期中は展示空間で様々な実験が行われていた。その成果として僕らは発電自転車で中型クラスのギターアンプとPAシステムを稼働させ、150名程度のライブに十分な音量を獲得することに成功。発電から送電、消費へと至るプロセスを公開し、アートの枠内で発電を扱うのではなく、国家規模の公共性に対し「等身大の公共性」をクリエイティブに体現しよう、という『東京藝術発電所』のコンセプトは、本日の『発電ライブ・パフォーマンス』において、もっとも直接的な形で現されたと思う。

「私たちの、私たちによる、私たちのための電力で、私たちの、私たちによる、私たちのための音楽を」というフレーズを合言葉に、一切コンセントからの電源を使わず、自分たちで発電した電力だけで、どこまでラウドなライブができるのか…。それはロックが理想としてきたD.I.Y(Do It Yourself)精神を、もっとも究極的な形で体現する試みだったと自負している。スペシャル・ゲストに光とノイズを放つ蛍光灯「オプトロン」のパフォーマンスで知られる伊東篤宏氏を迎え、ライブ前半は自転車による人力発電で僕と伊東氏それぞれのソロ。ライブ後半は人力発電による電力に、太陽光で蓄電しておいた電力を加えてデュオという形態で行われた。

開演時間になると予想を大きく上回る観客が集まり、会場は熱気に満ちていた。僕は自転車にまたがった格好で、発電自転車のペダルをこぎながらエレクトリック・ギターをかき鳴らし、マイクロフォンを通してKRAFTWERK(ちなみにこのバンド名はドイツ語で”発電所”を意味する)の『Radioactivity』や、美輪明宏の『ヨイトマケの唄』を演奏した。

ダイナモというのは発電しようとするとき、その回転に大きな抵抗が生まれる。そして音響機器というのは音量が大きければ大きいほど、多くの電力を消費する。つまり、より強く観客に音を届けようと、ギターをかき鳴らせばかき鳴らすほど、そしてマイクロフォンを通して声を張り上げれば上げるほど、それに比例して発電自転車のペダルはぐんと重くなるのである。人間の肉体は運動すれば疲労する。疲労でペダルをこぐ力が弱まると、電力が足りなくなり、ギターアンプとPAシステムの音が途絶え、照明も消えてしまう。僕は汗だくになりながら、そうはさせまいと必死にペダルを踏みながら演奏した。しかし肉体の限界に近づくにつれて、歌声はほとんど悲鳴になり、ペダルをこぐ足もガクガクと震え、演奏は音飛びするようにブツ切れになっていった。しまいに僕の演奏は音楽の形を成さなくなり、無惨にも一曲を歌いきる前に、会場は闇と静寂に支配されてしまった。それでも僕はペダルをこいで演奏を続けようとしたがだめだった。そのとき既に僕の身体は燃え尽きていて、電気をつくるようなエネルギーは残されていなかった。

畜生、ここまでか…、観客にぶざまな身体を晒しながらそう思ったとき、暗闇の中ですっと手が挙がるのが見えた。一部始終を見守っていた観客の中の一人が、代わりに自転車をこぎたいと志願してくれたのである。僕はそれを迎え入れ、自転車の席を交代した。その人のエネルギーの贈与によって、ギターアンプとPAシステムは息を吹き返し、照明の灯が取り戻された。再び会場に演奏が響きわたると、会場に大きな拍手でおこった。しかし、しばらくするとその人の肉体にもまた限界がくる。すると別の志願者が現れた。その人の肉体にも限界が来ると、さらにまた別の志願者が現れ、次々とエネルギーの贈与の連鎖が起こっていったのである。いつの間にか、出演者も観客も一緒に汗だくになりながら、自分たちの、自分たちによる、自分たちのための電力で、自分たちの、自分たちによる、自分たちのための音楽を分かち合うために皆が恊働していた。それは奇跡的な光景だった。

そしてライブの打ち上げの席。今回の展示の参加作家であり、僕が多摩美の助手時代に学生だった毛利悠子と大学の昔話になったときのこと。

地雷ワード、「オープン・キャンパス」パ裂。

ここまでの成績…。
積算上演日数:879(+1)
終演まで:590(±0)
終演見込み日:2013年5月27日(+1)

Posted: 10月 16th, 2011
Categories: パ日誌
Tags:
Comments: No Comments.